」 又 勝峯晉風 ( かつみねしんぷう )氏の教へによれば、俳書の 装幀 ( さうてい )も芭蕉以前は華美を好んだのにも関らず、芭蕉以後は簡素の中に 寂 ( さ )びを尊んだと云ふことである。
😔 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな 青蛙おのれもペンキぬりたてか 初秋や蝗つかめば柔かき 木枯や東京の日のありどころ 木枯や目刺に残る海の色 水洟や鼻の先だけ暮れ残る 兎も片耳垂るる大暑かな 元日や手を洗ひたる夕ごころ 「青蛙」の句以外は取り合わせです。 寢る前には必ず下へおり、のびのびと一人小便をする。
いや、芭蕉の気の入れかたを見れば、「生涯の道の草」などと称したのはポオズではないかと思ふ位である。
⚛ 芭蕉は 夙 ( つと )に伊藤 坦庵 ( たんあん )、田中 桐江 ( とうかう )などの学者に漢学を学んだと伝へられてゐる。 自ら命を断った昭和二年に書かれた『文芸的な、余りに文芸的な』のなかの「六 僕等の散文」にこのようなくだりがある。
(もっとも自死は七年後だった)そのように牽強付会ぬきにしても、いずれにせよ単に秋風の道のスケッチにとどまっていないのは確かであろう。
その後、「初夏の都大路の夕あかりふたゝび君とゆくよしもがな」など、吉井勇歌集『酒ほがひ』的な雰囲気の作品も発表する。
🙂 ただ昭和2年に亡くなるので、芥川の俳句はほぼ大正期に詠まれています。
本資料の信憑性に疑義を持つ方もいると思われる(実際にこの著作には事実ではないことが多数、出現する。
(中略)すぐに病床にまゐりて、 皮骨 ( ひこつ ) 連立 ( れんりつ )したまひたる体を見まゐらせて、且愁ひ、且悦ぶ。
芥川龍之介の三男・芥川也寸志 やすし 芥川也寸志は大正14年 1925年 7月12日に誕生しました。
⚐ 或夜半の炭火かすかにくづれけり ある日の夜も更けたころ、暖の炭火がかすかにくづれる音が聞こえた。 町行けば思わぬ空に花火かな 日が落ちてから、涼しさのある町へ出向いてみると、意外な空(場所)に花火が上がっている。 又山里の梅さへ過ぐるに万歳殿の来ぬ事よと京なつかしき 詠 ( ながめ )や侍らん。
が、実は千年の昔に「 常陸少女 ( ひたちをとめ )を忘れたまふな」と歌つた万葉集中の女人よりも遙かに縁の遠い俗人だつたではないか? 十三 鬼趣 芭蕉もあらゆる天才のやうに時代の 好尚 ( かうしやう )を反映してゐることは上に挙げた通りである。